まちと交通 2000年10月 4号
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5 TTRI Letter No.4特集 コミュニティバスを考えるコミュニティバスブームに思う1. はじめに 1995年のム-バスの走行開始以来、コミュニティバスブ-ムが続いている。「コミュニティバスは必要か?」と問われれば、今やほとんどの人がイエスと答えるだろう。その理由としてあげられるのは、高齢社会の到来や公共交通の衰退による「足なし地域」の出現である。 しかし、多くの人々が自分の生活スタイルの転換や費用負担までも視野に入れた上で、イエスと答えているのだろうか。また、コミュニティバスを導入するにしても、もっと根本的な問題について議論しなければならないような気がする。 コミュニティバスそのものについての議論は他のお二人にお任せし、私は、バリアフリ-や交通権(国民の交通する権利)の視点から、「コミュニティバスは交通政策上の救世主たりうるのか?」と問いかけてみたい。2. バリアフリ-道具・自動車 人間が人間である所以は、直立歩行とそれによって自由になった前足=手で道具を使用することにある。狩猟時代には、弓矢などの狩猟道具を発明することによって、動物との運動能力の差というバリアを克服し食料を手にいれた。現代においては、インタ-ネットによって、空間的距離というバリアを克服し、世界中とコミュニケ-トすることができる。 このように人間の歴史は、道具の発明と技術進歩によるバリアの克服の歴史でもある。しかし、弓矢は、それを操作して獲物を捕るにはかなりの熟練と筋力を必要とし、バリアの克服度という点では個々人の資質に大きく依存する。また、インタ-ネットの利用には、英語能力などの点でのバリアも存在する。 それに比べて自動車という道具は、機構が複雑であるにもかかわらず、その操作は比較的容易である。その上、「行きたい時に行きたい所へ行くことができる」。自分の交通行動を、時刻表で決められた時間に出発し決められた路線上を走るなど他律的にではなく、自分の意志に基づいて自律的に決定し実行できるのである。自動車はこの特性ゆえに、単に身体障害者の移動上のバリアを克服するだけでなく、社会参加の可能性を拡大することに大きく貢献している。この意味で、自動車はバリアフリ-道具の典型であると言ってもよかろう。 とりわけ、自家用車のバリアフリ-度は高く評価されている。というのは、上で述べたようなdoor to doorによる移動の連続性、快適性、随時性などの要素に加え、目的地までの高速道路料金が既存の公共交通機関の料金を下回るため、あたかも、自家用車の保有・利用にかかわるコストが公共交通機関を利用するためのコストに比べ低廉であり、コスト面のバリアも低いかのように錯覚するからである。(実際は、自動車の購入費、維持のための諸費用、交通事故にそなえての保険料などを計算すると決して安くはない。その上、環境汚染などを社会的費用として算定し、グリ-ン税として徴収することとなれば、自家用車の保有・利用のコストは一層高くつくことになる。) しかし、すべての人が自家用車を保有・利用できるわけではなく、現在運転している人の運転能力も加齢とともに低下する。したがって、自家用車の代替交通手段が必要となる。ここに登場するのが、コミュニティバスというわけである。当然、バリアフリ-道具としての自家用車の使い勝手の良さが、求められることとなる。3. 「抵抗なく歩ける距離」の短縮と交通権 コミュニティバスのバス停間隔は短い。通常の半分、およそ200m間隔である。しかも、小型で小回りがきき、狭い住宅地の中を走る。さらに、低床、ノンステップ車両が用いられ、無料もしくは低料金でタクシ-のようなデマンド機能まで付加されれば言うことはない。まさに、「自家用車に近づきつつある公共交通機関」と言ってもよかろう。 これまでは、本来個別的であるはずの交通需要が、供給側つまり交通機関側によって一定の容量・一定の性質の画一的な交通需要としてまとめられ、利用者はそれに順応することを求められてきた。こうした状況下においては、個々人の身体的条件の違いによって、公共交通機関の利用には多大なバリアが存在することとなる。 コミュニティバスは、利用者のうち最大のバリアを有する人々(スペシャルトランスポ-トを必要とする人を除く)の交通需要に対応することによって、より多くの人々に対して、既存の公共交通機関の使い勝手の悪さを克服する交通サ-ビスを提供する。この意味で、コミュニティバスは、「進化した」公共交通機関である。 かつて、岡並木氏は『都市と交通』の中で「抵抗なく歩ける距離」に関して、ヨ-ロッパの都市では400m、東南アジアの都市では 100~200m、東京では300mであると紹介した。 コミュニティバスの標準的なバス停間隔200mは、日本の諸地域における「抵抗なく歩ける距離」が、蒸し暑い東南アジアの水準にまで短縮したことを反映している。高齢社会に配慮した数字であることはわかる。しかし、それだけであろうか。公共交通機関がコミュニティバスへと「進化した」裏には、「進化」せざるをえない事情、つまり「退化した」何かがあるのではないだろうか。 人間の歩行機能そのものが「退化した」とは思えない。それで

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