541章 黎明期 1991-1994( 平成3年 〜6年 )れていたが、バブルの崩壊によりこの構想を大幅修正せざるを得ない状況となった。行政と連携を強化し、堅実な外郭団体へ 豊田都市交通研究所の当初の構想はバブル崩壊により消え去ったが、そこからは堅実な市の外郭団体としての役割を担う方向に素早く方向転換が図られた。予算案も限られた財源のなかで現実的なプランに修正されたほか、人事面においても行政からの出向者が増加。平成4年(1992)には、豊田市から主任研究員として中村忍を招聘した。 その後、それまで研究所を牽引してきた企画研究部長の岸田が急逝したこともあり、研究所の中心的な役割は中村へと移行。中村は人脈を生かして行政間との連携を積極的に深め、それは建設省の業務獲得にもつながった。 こうして官・民・学さまざまなバックグラウンドをもつ人材が集まった研究所には、当時の執務環境をあらわすエピソードとしてこんなものがある。まだ各自にパソコンはなく、文書等の作成はワープロなどのOA機器を使用し作業していた時代だったが、豊田市役所からの派遣メンバーはリコー製を、トヨタ自動車からの派遣メンバーは富士通製を使用していた。もちろんメーカーが違えば互換性もなく、せっかくのデータが「共有できない」という事象が頻繁に起こって
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