421章 黎明期 1991-1994( 平成3年 〜6年 )くりから決裁まで関与。研究所へ出向後は、官民の連携による豊田市における交通モデル都市づくりと、その研究成果を日本へそして世界へと広めるため、人脈を生かして研究所を支えた。 岸田は研究所の設立にあたり、将来的には100億円規模の財団を想定し組織体制や財政を組み立てていた。その記録は当時の調査書にも残っている。地元・豊田市にとどまらず、日本全国、ひいては世界で活躍する研究所をめざし、中央省庁とも交流が深かった岸田だからこそ描けたビジョンであった。しかし、平成4年(1992)にバブルが崩壊。翌、平成5年(1993)には岸田が病により他界してしまう。当初の構想は消え去り、豊田都市交通研究所は市の外郭団体としての役割を堅実に担うようになるのであった。 そして、その後、徐々にではあるが、企業、学識者、商工会議所、青年会議所などさまざまな機関を巻き込みつつ、そこから広がる人脈と、幅広い協力体制が構築されていくこととなる。
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